昭和48年7月2日 朝の御理解
x御理解第68節 
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。
いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手でも、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め」


 「えらいと思うてはならぬ」ここのところが難しいところです。
なかなか朝参りも続かん。心には、充分朝参りもさしてもらって、取次まで頂くけれども、やはり続かん。なぜ続かんかというと、えらいと思うから続かん。えらいとは、言うなら、しるしい、きついということです。また朝参りであるなら、眠たいということでしょう。
 雨が降るから、風が吹くからえらい。いわゆる雨風の時にはやっぱりしるしい。けれども、その、しるしいとか、眠たいとか、きついとかという。だから、それ以上のものを分からなければならんということになる。それ以上のものを。眠たい。やっぱりしるしい。
けれどもけれども、それ以上のものを頂く。それ以上のものを感ずる。だから朝参り出来るのである。
 例えば、普通で言えば、雨降り、風吹き、雨が降ったり、風が吹いたりする時に、しかも、朝参りをするということは、眠たいことであり、または苦しいことである。けれども、そういう時の方が、却って有難いという体験が伴うてくるようにならなければならん。
言うなら、真理の発見とでも申しますか、本当なことの発見。もうだから、これは信心の実践による外ないです。
 真理を追究するということを申します。それは、本当の理、本当の理が分かってくる。だから、本当のことをしなければおられなくなってくる。ただ、真理だとこう分かっただけでは、それは自分のものにはならぬ。やはり自分で発見する。本当のことがこういうところにあった。それは信心の実践より外にない、から、実践。信心の実践から生まれてくるものでなければ、本当に真理を把握するとか、または、追求しておる者の姿勢とは言えない。ただ、頭の上で信心が分かったって駄目である。
 本当に、「雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんと仰せられるから、まあ言うなら、「泣く泣く辛抱しいしいにでも辛抱させて頂いておったら、有難うて、有難うて」と三代金光様が仰られるように。それはそうでしょう。まだ十三くらいの若い、言わば子供ですよね、普通で言うなら。それが親様の後を御受けになられて、唯々「ここに座っとれば楽じゃ」と言われた、その一言を頼りに座っておられたけれども、なかなか楽ではなかったと。
 だから、それが、楽とか、それ以上のものを、に、ならば、金光様は触れられておられるです。そこを、ならば、「泣く泣く辛抱しいしいに辛抱しとりましたら」とこう言う。辛抱しとられる。いわゆる、一言を信じ、お言葉を信じ、教えを信じて、それを行の上に現わしておりましたら、思うこともなくなり、欲しいものもなくなり、ただ、有難うて有難うてというものでございました。
 辛抱、信心辛抱ということの先にです、そういう本当のことのまた本当のところへ、究極、達しておられる。しかも、有難うて有難うて、お礼の足りない。それでいて、また「お礼の足りない、お詫びばかりしております」と仰る。もういよいよ、本当の本当のところをね、極めておられる。それは、とてもとても、そこを行じ貫いた者でなければ、体得、体験出来ないところである。
 今日は、例えば教祖様は、言うならば、ものの道理、天地の道理いわゆる本当の理というものを、御教えにみ易う解いて下さって、成程そうだというところまでは誰でも分かる。けれども、そうだと分かるだけでなくて、自分のそれが血肉になる。自分で成程という真理の発見をさせてもらう。自分のものになる。それには成程、信心の実践以外にないということを、皆さんに体験して頂きたいと思う。
 そこでです、「今日も雨が降るけん、風が吹くけん、今日はご無礼しよう」と言うておったんではです、成程、普通の日よりも雨の日の方が、風の日の方が有難いんだということはです、話を聞いただけじゃ分からん。自分自身が体験しなければ。眠いけれどもですそこを頑張って辛抱させて頂いて、それこそ、金光様金光様とおすがりさせて頂きながら、辛抱させて頂いて、ああ辛抱させて頂いて良かったという、本当のものが生まれてくる。
 だから、成程、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんという意味が分かるでしょう。ただ辛抱せよというだけでなくて、「えらいと思うてはならん」と仰る。だからえらい、だからしるしい、と思うてはならぬ。なら、思わんで済むためには、しるしいけれども、しるしい以上のものが得られることが体験されてくるそれを、真実分からしてもらう。そして、成程これが信心辛抱の徳であろうかと思わせて頂けれるものが、積もり積もり重なって、やはり徳ということになる。信心辛抱の徳、それが身に徳を受ける修行じゃと仰っておられます。
 三代金光様がね、「信心には、辛抱することが一番大切でございます」と、ご自身が辛抱しぬいて、有難うて有難うて。それでも尚且つ、それが有難いだけではない、そのお礼が足りない。いつも、その有難いものに対して、実際に、お礼を申しても、お礼を申しても、またはお礼の印に、どれだけ辛抱させて頂いても、いつも足らない足らないというような心の状態が、「お礼の足りない、お詫びばかりしております」と。と言うて真理の追究をなさって、金光様でなからねば仰られぬところである。
 信心辛抱の徳、徳を受ける。成程、徳を受ける程しの、欲しいというものがなくなる程しのものが、辛抱の中にはあることが分かります。金光様の御信心を頂いて、一番何と言うても、我情我欲が放れるということでしょう。
 なら、その我情我欲もです、とてもとても、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うておるようではです、そこを辛抱しぬいた者でなからなければ、我情我欲が取れるとか思うことも、思うこととは我情ということでしょう。欲しいものもなくなるということは、欲がなくなるということでしょう。という程しの体験というものは泣く泣く辛抱しいしいに、辛抱しぬいておられる。そこから、泣く泣く辛抱しいしいに、させて頂いて、有難い、尊いことであったという体験が、次に生まれてくる。本当の本当のことが分かっておいでられるわけです、三代金光様の場合。
 今日は、私はここんところが一番大事なところ、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん」というところを、今日は聞いて頂いた。ところが初めの間は、やはり、えらいと思う。しるしいと思う。今日はもうご無礼しようと思う。けども、そこんところを泣く泣くでも辛抱し、貫いたものでなからなければです、しるしいものでない。有難いものだ、尊いものだという経験は生まれてこない。
 だから、雨が降る、風が吹いとったら、却って楽しくなってくるまあ、今日はお徳が受けられるぞ。今日は修行がさしてもらえるぞと、却って、普通の日よりも有難い。言うならば、弾んだ心も生まれてくるというもの。そして、お参りさせてもろうて良かった。この風と雨を犯してお参りをさせて頂くということが、どんなに有難いことであるかとの体験、そういう信心辛抱しぬいたところ、言わば教えの実践である。その教えの実践から、本当なことが分かる。
いわゆる、真理を分からせてもらうことが出来る。それはもう分かるだけではない、自分の為にもなるのです。それが楽しい。それが有難い。もうそこには、しるしいということは更々なくなる。だけではない。
 例えば金光様の場合、いわゆる、大変な我情我欲が取れる程しの大変な徳になっておる。ただ、有難うて有難うてという、信心の喜びに浸って行けるということも。何も別に難しい理屈を覚えとられたということではない。ただ、泣く泣く辛抱しい、辛抱しいしいに座っとりましたらと仰る。辛抱しぬかれたところに、泣く泣くというところを辛抱しぬいた、有難うて有難うてというものが生まれてきておる。えらいと思うてはならんというところを、ひとつ味わって頂きたいと思う。えらいと思わんで済む。
 昨日も、誰方とだったでしょうか。秋永先生とだったでしょうか誰とだったですかね。朝の御祈念にお参りをする。そして昼の修行に参加さしてもらう。そして夜は月次祭である。とにかく信心にかかっとらんならん。けれども、本当に、信心にかかっておる程しのことを頂き貫かせて頂いて、どうでしょうか。
 私どもの信心生活がです、ひっくるめてです、そういう、かかっておる程しのおかげを頂いた時にはです、もう自分自身はおかげの中にある事実を体験させて頂いたら、こんな素晴らしいことはない好きでたまらん。楽しゅうてたまらん信心をずっと出来る。朝・昼・晩出来るのである。けど、そげなわけにはゆかんというところに本当の真理の追究というのが出来んのです。
 鵜の鳥が一生懸命に働く。それこそ鵜匠の綱さばきのままに、川に入って、沢山、一生懸命に魚を捕ってくる。そして、それを全部また吐き出してしまう。けれども、鵜の鳥の立ち行くことの適当な餌だけは鵜匠が与える。
 言うなら、人間が与えるように、私どもがひとつ本気で、信心にかかってみるということが、これは、信心というものは余分のものじゃない。信心するなら暇もいれば、金もいるといったようなもんじゃない。もう信心そのものが生活なんだ。ひとつかかってみるが良い。成程神様がお生かし下さってあるんだなあ。神様のおかげで生活させて頂くんだなあという、それこそ素晴らしい、我情我欲をせんで済む世界がそこにあることを体験するでしょう。
 かかって信心が出来る。かかってお参りが出来るといったような今、朝、そして昼というように、仕事する暇はなかというように、信心がさせて頂けれる。そこに私どもが立ち行く道が、それで開けるなら、こんな素晴らしいことはないでしょう。
 朝、商売繁盛を願う。帰ったらもうお客さんが見えた。有難い。
またお礼参拝をする。帰るとまたお客さんが見えた。またお礼参拝をする。「お父さん、そげん、神様神様と言うて、そげん参拝ばっかりしてから、日に一回か二回にしたらどうですか」と。「お客さんがない、商売がないから、お願い参りばっかり行かんならんよりか、御礼参りばっかりの方が有難いじゃないか」と言われたというこれは大阪の玉水教会の有名な話ですよ。
 そこにです、なぜ御礼参り御礼参りということが有難いことかという、言うならば、真理を体験する。言うなら、信心。神さん参りにかかっておるということが、どんなに素晴らしいことかということが分かる。それはやっぱり、一日か二日続けたら、もう、成程言われる通りおかげを受けたということじゃないと、そのことを本当だと、例えば信じて頂けたら、それを実行することなんです。実践することなんです。
 そして、成程、これならおかげを受けられるという事実を分からせてもらう。だから信心には金を惜しんでもならないし、暇を惜しんでもならない。いや、惜しんでは馬鹿らしいということになる。
いわゆるお参りをする。お供えをする。「惜しいと思うてはならぬえらいと思うてはならぬ」ということは、そういうことにも当てはまると思う。それこそ、なら惜しいと思うてはならぬと。ならばどう思わなきゃならんかというと、それが出来ることが有難いと思わなきゃならん。その、有難いと思わせて頂けれることが、そのまま徳になるのです。
 昨日も、ある方が、この修行を、いよいよ我情を出すまいと決心した。ああして欲しい。こうあってもらいたいというのは、もう我情だ。それを主人に、子供に、誰彼に、それをそう思うておったけど、それでは自分が助からん。あああって欲しい、こうあって欲しいという、その思いを捨てる。我情を捨てることに本気で取り組ませて頂く。なら、それを本気で取り組ませて頂くことはどういうことであろうかと思うてみた。そこで分からせて頂いたのはです、これは、合楽教会大発展を祈ることだ、願うことだと思うた。
 例えばそこにです、合楽教会大発展を、最近言われるそのことを祈る。そのことを思うということがです、どういう我情が出ようとする時でも、ああ合楽教会大発展を願うておる修行にはならないと思うて、合楽教会の大発展を祈ることだけにかけようとこう思うたそれは丁度、朝の御祈念の後にそうお届けをされた。それは素晴らしいことを思い付かれたですねと。
 それから、昼の修行に参って見えて、「もう先生恐れ入りましたというお届けがあった。帰らせて頂いたら、主人がぽんと私の前にお金を三万円出した。そしてお父さんが言われること、「私は合楽教会大発展にかける。だから、毎日千円づつ、合楽教会大発展の為に、お初穂をしてくれ」と言って、お父さんが出してくれた。「もういよいよ、本当にありがたいことと思うただけでも、打てば響くようなおかげを頂きました」と言うて、昨日の一時の修行の後にお届けがありました。
 言うならば、もうそれにかけるということ。それをです、惜しい惜しいとか、しるしいしるしいとか、ああえらいと思うたりしてはならないと。そういう尊いことにかけられるということが、有難いという体験がです、生まれてくる。そこから次に、本当のものを追うことが出来るのです。
 今日は、えらいと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。だから、それを実行するから、すぐ有難くなるということではない、それを辛抱しぬいておるうちに、初めの間は、泣く泣くでも、辛抱しぬいておるうちに、思うことも欲しいものもなくなる程しの本当な世界に出ることが出来る。
 そこから、成程、信心には、それこそ、本当の信心生活というものが有難いものだということが分かる。お互い、一心発起させて頂くところからです、そこには、ある場合には、お試しのある場合もあるでしょう。もう今日の雨にはお参りは出来まいと思う日もあるでしょう。とても今日の風にはという日もあるでしょう。いよいよ今日は、いっちょもお参りしゅうごつなかという日があるかもしれません。
 だから、そこんところをです、えらいと思いながらでも、辛抱しぬいて行かせて頂いておるうちにです、その向こうに、有難い世界があることに体験する。それが私は有難いのだと思う。それがそのまま徳になって行くと思う。「その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と仰る。
 今日はひとつここんところをですね、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。そんならどう思わにゃならんか。有難いと思わにゃならん。楽しいと思わせて頂いて、なきゃならん。だけど、初めから有難いとか、楽しいとか思わにゃならんけども、その過程においては、えらい、しるしい、けれども、ここんところが辛抱だなという信心を、身に着けて行かなきゃならんと思う。
どうぞ。